私が実業団を諦めてオーストラリアに渡航するまで
- 2018.08.29
- softball

海外のローカルチームでソフトボールをしながら、東京オリンピック代表選手を目指すアスリートライターの本庄遥(@number_1h)です。→アスリートライターとは?
夢が私にオーストラリアへ導いた
高校時代にお世話になったボディービルダー世界チャンピオンの方が、夢の中で私に向かってこう叫びました。
「アメリカのウェルトンに呼ばれてるぞ!」
それはちょうど大学に入って肩に怪我をしていたときのことでした。
肩に怪我をするまで、自分で褒めてあげたいくらい、大事な場面で打たれる事はかなり少なく、多くの監督、コーチの方から「点を取られないピッチャー」「根性がある」と褒めてもらいました。
その頃わたしは
「きっと大学を卒業したら一部リーグの何処かのチームで戦うんだろうな」
と漠然と考えていましたし、大学の監督、コーチにも「実業団志望です」とはっきり伝えていました。
そのくらい自信がありました。
私が打たれるわけがない、と。
自分が本気を出せばどんな人でも絶対抑えられる、と。
はじめにぶつかったのは、革ボールとゴムボールの違いから生じた壁。
高校生から大学や実業団に行くピッチャーは、多くの選手がこの壁にぶつかります。
もちろん私もぶつかりました。
もともとコントロールピッチャーだったこともあり、2回生の夏頃には感覚はかなり良くなっていて、それなりに打ち取れるようになりました。
ゴムボールよりはるかに飛びやすく、ホームランの確率が高い革ボールで打ち取れた時の気持ち良さにどんどんハマっていきました。
2回生の秋。
もともと無理をしてしまう性格で責任感の強い私は、肩が全く上がらない程の大怪我を覆いました。
むしろ、覆ったのではなく無理に無理を重ねて意図的にこうなりました。
11月から半年間、全く投げれない日々が続きました。
敵チームにバレたら損をすると思って、「風邪を引いた」などの言い訳をして同じチームメイト以外には隠し通りました。
3月から始まるオープン戦に正直全く間に合わず、肩が痛い原因もわからないまま無理矢理試合にで続けました。
投げれなくなることより、目の前の試合で私が投げずに負けるほうが嫌でした。
半年間もかかって投げれない時期が続き、「投げられなくなるかもしれない」という恐怖と隣り合わせに投げ続けました。
投げられなくなったら後悔するのに、目の前の試合を投げ出すことはできませんでした。
それくらい勝つことにこだわっていました。
こうして誤魔化し続けていると、肩の状態は右肩下がりにどんどん悪くなり、打たれ続けました。
いつの間にか、チームに貢献できなくなっていきました。
チームのために頑張っているつもりが、頑張れない自分に嫌気が指すと同時にピッチャーとしての自信も段々なくなっていきました。
怪我をする前の自分に戻れないのではないか。
なんとなく、そんな風に感じました。
それと同時に実業団に行くイメージがどんどんできなくなり、「そもそも、なんでいきたいと思っていたのだろう」と疑問を抱くようになりました。
実業団に行きたいことを監督に伝えてしまっているし、自分で決めたことなのに、どんどん実業団で自分が投げているイメージが、頭の中から消えていきました。
そんなある日
「アメリカのウェルトンに呼ばれてるぞ!」
と言われる夢を見ました。
実際にこのチームは存在しなかったのですが、その日の朝、迷わず「海外へ行くこと」を決めました。
なんだか、誰かに導かれている気分でした。
今まで「勝利」にこだわり続けて戦ってきた日々は、ソフトボールを始めた頃の「投げたい!」「楽しい!」という気持ちから段々と遠ざかっていました。
「勝ちたい」より先に「楽しさ」を思い出すきっかけが欲しかったんだと思います。
自分と向き合う時間が必要でした。
高校、大学までソフトをして進路を考えているあなたへ
正直、オーストラリアは誰でもいけます。
誰でもチームに加入できます。
親子でソフトをしている人だっています。
可能性は無限にあります。
私が実業団に行かずに新しい進路をつくれたことに悔いは全くありません。
むしろオンリーワンになれた気がして、洞窟の中から新しい道を見つけだした気がして心がワクワクしています。
なんなら他の進路とかもつくっていきたいと思っている程です。
世界各国に日本人がソフトをできる場所を作ったらどうなるのか?なんて考えています。
今は、1年間オーストラリアでソフトをすることが決まっているので今後の予定をじっくり考えながら過ごしています。
追記:結局オーストラリアQLD州U23の代表に選んでいただき、2019年3月まで残ることになりました。
海外行った人が、
「人生変わった。」「価値観が変わった。」
と言っていますが、それは人によって違います。
私はそれよりも身近なことにありがたみを感じるようになりました。
例えば、「挨拶っていいな」と思えたり、「日本のご飯恋しい…」など日本のいいところに気付けるようになりました。
一番海外に来て変わったことは、周りの目を気にしなくなったことです。
日本にいるときは、着たい服を着れませんでしたがオーストラリアで着れるようになりました。
自分の意見を言える様になりました。(特に英語の影響が大きい)
そんな風に自分の知らなかった自分にも出会えました。
海外に行く道は私がつくったので、どんどん連絡ください。
時期、国によっては一緒について行って紹介します。
日本のソフトボーラーの誰かがこの記事を読んで一歩踏み出す勇気になってくれたら幸いです。
はるか
東京オリンピックへ向けて。〜プロへの挑戦〜
私は2020年3月10日からソフトボール世界No. 1の国であるアメリカのプロソフトボールチームに入団テストを受けに来ています。
身長は154㎝で体格は決して恵まれていません。
中学時代全国大会でベスト4、高校のインターハイで優勝、大学の関西リーグでは、防御率0で最優秀投手賞を受賞。
しかしながら、日の丸を背負って投げた試合は、日韓交流戦のたった一度だけ。
防御率はいいものの、決して三振をバンバン取れるピッチャーではなく、同年代の中でも目立ったピッチャーではありませんでした。
立命館大学に入学し、1回生の秋からほとんどの試合を任せてもらうようになり、エースとしてマウンドに立ち続けてきました。
しかし、過度な投球が原因で肩を負傷。
上野さんたちが戦っている日本ソフトボール界の頂点である「実業団」に挑戦するイメージはどんどん消えてきました。
ある日、夢の中でアメリカのプロリーグにスカウトされました。
夢を見たことがきっかけで海外でソフトボールを続けることを決意。
2017年11月からオーストラリアのブリスベンに1年半ソフトボール留学し、QLD州(ソフトボールが最も盛ん地域)U23の代表に選ばれました。
オーストラリアで、自分のピッチングが通用したことが
自信になり、ソフトボール世界No.1のアメリカで、プロを目指すことを決めました。
人間、諦めなければ必ず夢は叶うと信じてここまで取り組んできました。
アメリカのプロになる事は、決して簡単なことではありません。
しかし、どうしてもこの夢を叶えて日本人初のプロソフトボール選手になりたいのです。
そして、日本から私以降にアメリカでプロになる選手を増やし、日本の競技力向上を図ります。
私のファンクラブにて、今後の展望をお伝えしておりますので、是非ご覧ください。
このファンクラブは、みなさんと一緒に夢を追いかけるためのコミュニティです。
ぜひご入会いただき、一緒に夢を追いかけてみませんか? ファンクラブはこちらから
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