本庄遥ファンクラブ

ずっと東京オリンピックというワードを出すのが怖かった。

ずっと東京オリンピックというワードを出すのが怖かった。

 

オーストラリアでソフトボール留学をしているアスリートライターの本庄遥です。

今回は私が目指す場所、そして今後の目標について考えていたときのことを書いていこうと思います。

 

東京オリンピックというワードを出すまで

私が東京オリンピック逆輸入を合言葉にしたのは、つい1ヶ月前のことです。
今年の3月頃にスポンサー兼マッチングサイト『Find-FC』を経営されている吉沢さんとスカイプをしたときは、「私は東京オリンピックは目標ではありません。たくさんの人に海外でソフトボールができる環境を広めることが自分の目標です。」とお伝えしました。

私の中での『ソフトボール』はあくまで一つのツールであり、日本で感じた「部活をしていたら部活以外は全て禁止して勝つことだけにこだわらなければならない」というしがらみから抜け出したいという思いでした。
そして、私が海外でソフトボールをしながら発信することで他の誰かが「海外でもソフトボールができるんだ!」と思って日本以外でソフトボールをしてみたいと思うことが私の1番の願いでした。

 

点を取られないピッチャーへ

高校時代にお世話になった長澤監督の旦那さん、長澤宏之先生(夙川高校時代に何度も全国優勝へ導き、現在創志学園の野球部で甲子園に何度も連れて行き常連校に仕立て上げた大監督。)に市崎コーチ(創志学園ソフト部コーチ)が

「本庄ってどんなピッチャーでしたか?」

と聞いたところ

「あいつは点を取られないピッチャーだ。」

と言ってくださったそうです。

それを肯定化するように、大学一回生関西秋リーグで防御率0最優秀投手賞を受賞しました。

 

目標は高く一部リーグでの活躍を夢見る

大学一回生で戦績を残した後、そのまま4回生が引退してから大事な試合は全て任せてもらうことになり、日に日に実業団での活躍をイメージするようになりました。

そのときには、当時私が一回生だったときのキャプテンの方から

「監督が本庄を一部リーグに掘り込みたいって言ってたよ。」

という言葉をもらって1週間以内に監督に実業団に行きたいこと、挑戦してみたいことを伝えました。
このときは、本気で狙いに行っていましたし活躍できないわけがないと思うほど自信満々だったことをよく覚えています。

オーバーワークから始まった悪夢

一回生から毎日のように投げ込み、毎週の試合では多いときで1.5試合消化が当たり前。
本番では、真夏の真昼間 に二試合連投…ということも多々ありました。

知らず知らずのうちに、私の身体は無理をし二回生の11月の新人戦後完全に肩が上がらなくなりました。

治らない肩の痛みとどこに行っても原因がわからない不安

初めは病院に行きました。レントゲン、MRIをとるも骨は健全で全く何も映らない写真たち。

「おそらく…ですね。」

と映らないなりに医師から言い渡される答えは全く頭に入ってきませんでした。

医師に言われた通りにリハビリをするも治る気配が全くなく、挙げ句の果てに間に合うと言われていた春リーグも厳しいと言い渡され、リハビリに行くのもやめました。
そこから紹介されるがままにいろんなところに父と足を運び、泣くほど痛い治療を受けたりおまじないのような肩の触られ方をしたりと、やれることは全てやりました。

それでも完治した日はなく、気持ち的に少しましにはなったかな…という形で投げ続けました。

責任感がさらに自分を追い込む

もともとチームを勝たせるために投げ続けていた私は、自分の体のことよりも私がいないことによって負けるチームを見ていられない、勝たせられない、投げることもできないことにストレスが溜まりました。

ずっとエースとして投げてきたこのチームを勝たせたいならどうするべきなのか…そう考えたときに自分が無理して投げ続けることでした。

結果一つ上の先輩たちの学年のときには、無理やり復活しなんとか予選を通過。インカレも西カレもつかむ事が出来ました。

それと引き換えに、私の肩の痛みは一向に取れないまま引退しました。

パフォーマンスが戻らないことから自信をなくす

自分の本来のピッチングが消えた日から、完全に自信をなくしました。
無くした、というよりどうすればいいかわからなかったというのが近いです。

そこからは自分と戦う日々が続きました。

試合の結果も少しずつ下がり、目の前のバッターの倒し方が全く分からなくなっていきました。
思っている場所に投げられない事がこんなにも苦痛だということも知りました。

そこから実業団の夢はどんどんなくなっていきました。

スカウトされる夢を見た

肩の調子が悪くなってからアメリカのチームにスカウトされる夢を見ました。

詳しくは『実業団にいかずに、あえてオーストラリアでソフトをすることを選んだ理由』に書きました。

私の夢は一気に変更。
オーストラリアに渡航することを決めました。

トビタテ留学ジャパンに応募

この夢を見てから、待ってましたと言わんばかりにコトがとんとん拍子に進み、エージェントから教えてもらったトビタテ留学ジャパンに応募することにしました。

そのときにこのトビタテ留学ジャパンのそもそものテーマは「東京オリンピックまでに留学生を増やす」という企画によってできた奨学金です。

ソフトボール×東京オリンピック。まさに選手として出場し金メダルを取ることが1番のトビタテ孝行になると考えました。

結果は合格。奨学金を一年もらいオーストラリアへの留学が決まりました。

東京オリンピック選手になりたい気持ちと不安

私のことを身近で見ている人は「なんで実業団に行かなかったんだろう?」「急に名前聞かなくなったな」と思っている人も正直多いです。

最近はSNSでの発信効果もあり、「オーストラリアで頑張ってるんやなあ」と言って貰うことも多くなりました。

しかし、「東京オリンピックを目指しているのになんで海外なの?」「身長低いしたいしてボールも速くないのによく目指すなんて言えるな…」とみんなに思われているのでは?となんとなく不安に思う気持ちもありました。

超絶ポジティブな私にもたまにはネガティヴさが出ることもあるんですね。笑

でも、応援してくれている人に答えたい気持ちと目指していく私の背中を見て新しく挑戦していく人たちをたくさん見てきました。

目指すことは誰にでもできること

本当に簡単なことなのですが、実際はとっても難しく考えてしまうこと。
私も周りの目が木になったり、かつて自信を失ったコトが私の足を引っ張っていました。

目指す=絶対に叶う って考えるのではなくて、目標に対して頑張ってみること目指すって言うんですよね。

私も今登っている山は、前代未聞誰も通ったコトがない道からのオリンピアを目指しています。
初めから「みんながやったコトないから」って言って諦めたらもったいないです。

チャレンジしてみてからダメだったときに考えればいいし、悪いイメージをしていてもいい結果は生まれません。
まずは目指してそこに向かって走ってみるコトです。

 

アマチュア選手がプロ選手になった瞬間

私が留学する前はスポンサー0、ファンは形として見えていない状態、SNSでも特別誰かから応援メッセージがくるなんてことはありませんでした。

しかし、現在はスポンサー6社、ファン10名(クラウドファンディング 支援者)に生活の一部を支えられソフトボールを続けるコトができています。

上野さんやアボットのように実業団、プロ契約をして戦っている選手とは違い、プロ界では無名のアマチュア選手の私がスポンサー6社もつけてプロ選手として活動させてもらっているんです。*

*ここでのプロの定義はスポーツを通じてお金をもらっていることを指しています。

これって夢あると思いませんか?

 

東京オリンピックを目指すフリーソフトボーラーとしての価値を

冒頭に言った

「私の記事を見て海外でソフトがしたいなと思う人が増えたらいいな」

と言うのは、私が有名になればなるほどどんどん叶っていくことだと感じました。

東京オリンピックを目指すことは一見自分のためにやっていること、自分だけの目標に見えて実は今後のソフトボーラーが活躍する大きな第一歩、宣伝に繋がる事もわかりました。

 

2018年も終わり、ラスト一年でどういう勝負ができる人になるか。ここに試されていると思います。

東京オリンピックの選考会に参加して、アピールし、戦い抜こうと思います。

はるか

 

追記

個人で応援してくださる方はこちらから。

企業で応援してくださる方はこちらから。

 

東京オリンピックへ向けて。〜プロへの挑戦〜


私は2020年3月10日からソフトボール世界No. 1の国であるアメリカのプロソフトボールチームに入団テストを受けに来ています。

身長は154㎝で体格は決して恵まれていません。


中学時代全国大会でベスト4、高校のインターハイで優勝、大学の関西リーグでは、防御率0で最優秀投手賞を受賞。

しかしながら、日の丸を背負って投げた試合は、日韓交流戦のたった一度だけ。

防御率はいいものの、決して三振をバンバン取れるピッチャーではなく、同年代の中でも目立ったピッチャーではありませんでした。
 
立命館大学に入学し、1回生の秋からほとんどの試合を任せてもらうようになり、エースとしてマウンドに立ち続けてきました。

しかし、過度な投球が原因で肩を負傷。

上野さんたちが戦っている日本ソフトボール界の頂点である「実業団」に挑戦するイメージはどんどん消えてきました。

ある日、夢の中でアメリカのプロリーグにスカウトされました。

夢を見たことがきっかけで海外でソフトボールを続けることを決意。

2017年11月からオーストラリアのブリスベンに1年半ソフトボール留学し、QLD州(ソフトボールが最も盛ん地域)U23の代表に選ばれました。
 
オーストラリアで、自分のピッチングが通用したことが
自信になり、ソフトボール世界No.1のアメリカで、プロを目指すことを決めました。
 
人間、諦めなければ必ず夢は叶うと信じてここまで取り組んできました。

アメリカのプロになる事は、決して簡単なことではありません。

しかし、どうしてもこの夢を叶えて日本人初のプロソフトボール選手になりたいのです。

そして、日本から私以降にアメリカでプロになる選手を増やし、日本の競技力向上を図ります。

私のファンクラブにて、今後の展望をお伝えしておりますので、是非ご覧ください。

このファンクラブは、みなさんと一緒に夢を追いかけるためのコミュニティです。

ぜひご入会いただき、一緒に夢を追いかけてみませんか?
ファンクラブはこちらから