本庄遥ファンクラブ

プロ野球選手からプロクリケット選手へ。〜木村昇吾さんの挑戦〜

プロ野球選手からプロクリケット選手へ。〜木村昇吾さんの挑戦〜

 

海外のローカルチームでソフトボールをしながら、日本代表選手を目指すアスリートライターの本庄遥(@number_1h)です。→アスリートライターとは?

 

みなさんはクリケットという競技をご存知ですか?

 

 

クリケット(英: cricket、英語発音: [ˈkrikit] )は、フィールド上1チーム11名の2チームによって半径70メートルほどの広大なフィールド(クリケットではオーヴァル:oval と呼ばれる)で行われるバットとボールを用いるスポーツである。

Wikipediaより

 

クリケットはバットとボールを使う野球とよく似たスポーツです。(野球の原型とも言われています。)

野球が盛んな日本で、クリケットの認知度が低いなんて不思議ですね。

クリケットは世界中で親しまれていて、競技人口ランキングではサッカーに次ぐ世界第2位のスポーツになっています!!

特にインドやオーストラリアでは非常に人気の高いスポーツになっているんです。

 

私は1年半、オーストラリアのチームでソフトボールをプレーしました。

オーストラリアでは、街頭テレビのクリケットのライブ中継に人だかりができるほど、人気の高いスポーツです。

野球やソフトボールとも比較的ルールが似ていることもあり、私も興味が湧きました。

そんな中、クリケットのことを調べてみると、すでにオーストラリアで活躍されている日本人のすごい選手がいたんです!

元プロ野球選手の木村昇吾さんです。

 

もともとプロ野球選手として活躍された方が、セカンドキャリアとしてプロのクリケット選手になる

 

そんな木村昇吾さんの挑戦に強いインパクトを感じ、どうしてもお話しを聞いてみたくなりました。

さらに、私がオーストラリアのチームに所属しているタイミングで、木村昇吾さんもメルボルンでプレーされているとの情報を得ました。

どうにかしてお会いできないかと思い、木村昇吾さんのオフィシャルサイトのお問い合わせフォームから思い切って連絡しました。

 

http://shogokimura.net/#challenge

数日後、木村昇吾さんご本人から直接、返信を頂きました。

偶然にも、木村昇吾さんと私のオーストラリアでの滞在期間が重なっていたこともあり、直接お会いして取材させて頂けることになりました。

今回は、元プロ野球選手の木村昇吾さんがどのようにクリケット選手になったか、そして野球とクリケットに対する熱い想いを語って頂きました。

今回のinterviewee(木村昇吾さん)

 

1980年4月16日、大阪府生まれの38歳。

尽誠学園で3年夏に甲子園出場。愛知学院大に進学し、遊撃手でベストナインを5度獲得するなど活躍。

リーグ通算打率3割1分8厘、5本塁打。

02年ドラフト11位で横浜に入団。

07年オフに広島にトレードされ、11年は遊撃のレギュラーをつかみ、

自己最多の106試合出場で37犠打をマーク。

15年オフにFA権を行使したが移籍先が難航し、西武にテスト生で入団。

17年限りで戦力外通告を受け、クリケットに転身。

18年クリケット男子日本代表強化選手団に選出される。

クリケット界の世界最高峰であるインディアン・プレミアリーグ(IPL)での活躍を目指す。

木村さんのホームページより

 

野球を始めたきっかけ

ーーー木村さん、本日はよろしくお願いします!

よろしくお願いします!

 

ーーーまず初めに、野球を始めたきっかけを教えてください。

今、何時?

 

ーーー今、4時前です。(公園にて)

明日になるけどええか?

 

ーーーあ、えっと、できる限り短縮して話していただければ助かります!笑

俺、今何歳か知ってる?笑

長くなるで〜。笑

 

ーーーあ、はい!!(聞き方思いっきり間違えた。汗)

まずは、野球を始めたきっかけから話しますね。

 

ーーーお願いします!

野球に興味を持ったのは、父の影響でした。

実家が大阪で、父は巨人ファン。

ちょうどその頃、PL学園で清原さん、桑田さんが活躍されていた時代でした。

大阪のPL学園から父が応援している巨人に桑田さんが入団したので、当時、家中ではかなり盛り上がりました。

 

小学生から野球を始める

ーーー木村さんが野球を始めたのはいつからですか?

小学校1年生のときに、大阪クーガースっていう少年野球チームに入団しました。

ひと学年10人と比較的少なかったのですが、2年生の時点で6年生の練習に混ざり、試合にも出場していました。

 

ーーー2年生の時点から6年生と一緒に試合に出ていたなんて、当時からかなりセンスがあったんですね!

そのお陰で、いろんなポジションを守れるようになりました。

守備は主にショートとセカンドでしたが、毎年、各学年で、4番・エース・キャプテンを努めてきました。

 

ーーーオールラウンダーだったんですね!

そうですね。

初めて試合に出場したときの打席で、三塁打を打ちました。

当時はまだ、ベースランニングを知らないまま打席に立っていたので、打った瞬間とにかくベースに一直線に走りました。

コーチが「ゴー!」と言ったら次のベースまで全力で走り、三塁まで行ったときに「ストップ!!」と言われたので止まったら、三塁ベースだった…という感じですね。

 

ーーーベースランニングのお話しは、小学生の低学年のときによくある話ですね…。笑 木村さんがプロになりたいと思ったのはいつからですか?

プロ野球選手になれると思ったのは、小学3年生のときでした。

「王さんのホームラン記録を抜く、絶対抜いてやる!!」と強く思っていました。

小学校を卒業するときに「10億円プレイヤーになる!と文集に書いたほど、プロになれる確信がありました。

 

ーーー木村さんのお話を聞いていると、自信に満ち溢れていることが伝わってきます。育った環境は褒められたり、勇気づけられる環境だったのでしょうか?

褒めてもらうところは褒めてもらえる環境でした。

しかし父が監督兼責任者だったので、自分のミスはもちろん、味方のミスでもどつかれていました。

「エースでキャプテン4番だから、勝っても負けてもお前の責任、だからお前を怒るしかない。」

と父からは言われていましたが、当時はまだ小学生でしたし、腑に落ちない部分も気に入らないこともありましたね。

 

ーーーかなり厳しい環境でプレーされていたんですね。野球が嫌になったりすることはありませんでしたか?

厳しかったとは思いますが、それ以上に負けることの方が悔しかったので、試合は常に勝気で挑んでいました。

 

小学5年生のとき、身長180㎝の大物選手が近くのチームにいたんです。

僕はその人に「ボール投げ」などの記録では負けていましたが、その人がいるチームとの試合に投手として出場し、勝つことができました。

当時僕は、身長150㎝ほどだったのですが、

「今の段階で180㎝の選手に勝てるなら、僕が今後大きくなったらもっといい選手になれるに違いない!」

と、更に自信になりました。

 

ーーー中学生のときはどんなチームでプレーしましたか?

中学生では、大阪東ジャガーズという硬式野球チームに入団しました。

小学5年生のときに野球肘になり、投げられない状態のまま、硬式のチームに入りました。

その怪我の関係で、中学生の頃はピッチャーはほとんどしませんでした。

その代わり、ショートやセカンドなど内野手をメインでプレーするようになりました。

 

香川の尽誠学園へ

 

ーーー地元大阪の高校に進学しなかった理由はなんですか?

大阪桐蔭から推薦のお話しは頂いていました。

当時大阪は激戦区で、対戦相手になるPL学園には有名な選手が集まるという噂がありました。

あえて大阪桐蔭には行かずに、別の県で甲子園を目指す方向に転換しました。

中学生ときに所属していたチームと高校が繋がりがあったことも重なり、香川の尽誠学園に行くことになりました。

 

ーーーご自身の選択は正しかったと感じていますか?

そうですね。

うちのチームのエースは、ストレートも145キロ位と速く、スライダーもキレキレでした。

強豪校でもバットに当たりませんでしたね。

3年生のときには甲子園も行けましたし、尽誠学園では非常にいい経験ができたと感じています。

 

ーーー「非常に良い経験」とおっしゃいましたが、その中でも印象に残っていることがあれば教えてください。

当時の監督に

「ファーストが一番伸びれるところにライナー性のボールを投げろ。」

と言われました。

こういう助言をもらったときは特に燃える性格だったので、弾丸ライナーのボールを足元の一番伸びられる場所にきっちりと投げれるようにかなり練習しました。

 

ーーーどんな練習をしましたか?

ファーストに投げるのではなく、ファーストミットを貫通させるボールを投げるイメージで投げました。

結果、ピッチングのときの球速146㎞/h を上回るボールを、ファーストからショートに投げるボールの速さが152km/h と上回りました。

 

ーーーピッチャーのときよりも、ショートからファーストに投げる送球の方が速かったんですか?!

そうなんです。笑

ボールをとってから投げる方が、リズムが取れて速く投げれました。

「マウンドでもそうやって投げろ!」

って言われましたが、守備のようにボールを取ってから投げるようなリズムでは、投球できませんからね。笑

 

高校からプロ野球に行かず、愛知学院大学へ入学

 

ーーー大学はどこに行かれたのでしょうか?

愛知学院大学です。

 

ーーー木村さんは小学生の頃からプロ野球選手になると決めていたと思いますが、なぜ、高校から直接プロに行かず、大学に行こうと思ったのでしょうか?

高校の監督が、下位指名の可能性が高いならプロには送り込まないというタイプだったことが1番の理由です。

また、母が「自分の進路は全て自分で決めなさい」と言ってくれていたことも大きかったです。

良いことも悪いことも自分で責任が取れるように、選択肢を僕に与え続けてくれました。

もちろん高校からすぐにプロに行きたい気持ちもありましたが、「まずは大学で下積みしてから」という高校の監督からのアドバイスを受け、大学卒業後にプロ志望届を提出することを選択しました。

 

ーーー高校の段階でプロに行くことを考えるほど実力があった木村さんは、大学時代もかなり活躍されたのではないでしょうか?

1年生の頃から試合に出場させてもらっていました。

相手の監督に

「お前何歳や、まだおるんか。笑」とよく言われていましたね。笑

当時うちのチームは、愛知のリーグで一番強かったです。

1年生のときに6番バッターを任せてもらい、そのときの打率が4割6分2厘でした。

本来なら新人賞、首位打者を取れる数字だったのですが、打席数が足りておらず、賞を逃す結果となりました。

その頃からプロ野球では

「打率が足りていない場合、足りない打席数を凡打で数えても打率が首位の場合は首位打者と認める」

というルールがありましたが、当時、愛知大学野球連盟にはその規定はありませんでした。

それが悔しくて、愛知県大学野球連盟に話しにいった結果、僕が逃した次の年から採用されるようになりました。

 

ーーー規定を変えてしまうほど影響力があったんですね…。笑 ドラフト会議はやはり緊張されましたか?

当時、社会人野球でプロ待ち*をさせてくれるところがあったのですが、不況だったこともあり、

「木村はどうせプロいけるやろ」

と言われて、社会人チームの保険なしの状態で受けました。

 

*ドラフトに落ちた時に、オファーをもらった社会人野球チームに行ける約束

 

ーーー滑り止めがない状態で受けた…ということですよね。

そういうことですね。

しかし、指名してもらえると思っていた球団の監督さんが、5位指名が終わった後席を立たれました。

学校で僕の友だちや先生たちも一緒にドラフト会議を見ていたので、「これはまずいんじゃない?」という雰囲気が流れました。

僕自身も「もしかしたらプロに行くことは厳しいかもしれない…」と感じ始めました。

 

その後、横浜ベイスターズが11順目に入っていて、「お願いだから俺の名前に変わってくれ…」と願っていると、画面がその瞬間、僕の名前に変わりました。

緊張も解け、一緒にいた友だちも大盛り上がりでした。

 

裏話しなのですが、横浜ベイスターズのスカウトの方が、選手一覧を見ているときに僕の名前がドラフト漏れしているのを見つけて「この子取っておいたほうがいいですよ!」と言ってくれていたそうです。

そのタイミングで気付かれないままドラフトが終わっていたら、今の自分はなったと思うと、横浜ベイスターズのスカウトの方には感謝しかありません。

 

いざ、プロの世界へ

 

ーーー初めてのプロ球団は、横浜ベイスターズだったんですね!

そうですね。

横浜ベイスターズの時代は、正直自分が納得できる結果を残すことができませんでした。

1年目で見定められ、2年目でその人のレベルがわかり、3年目でこれからのことを考える…というのがプロの世界。

このとき一軍に上がることは、かなり厳しい状況でした。

 

ーーーその後、広島カープでもプレーされていますが、どのようなかたちで移籍されたのでしょうか?

横浜ベイスターズで成績が残せていないとき、ドラフトのときにお世話になったスカウトの方が、広島カープの方に僕のことを「あの選手、きっとチームに合いますよ」と勧めてくださいました。

そこから広島カープのスカウトの方が見に来てくださり、移籍することが決まりました。

 

広島カープで新たなスタートを

 

ーーースカウトの方はいつも木村さんの可能性を感じられていたんですね!

広島カープでは、横浜ベイスターズ時のときのレッテルも外れて、新しい生活のスタートでした。

ファンの方も非常に快く受け入れてくれました。

また、広島カープの伝統として、元気で体力があってハードな練習に耐えられる選手を鍛えて強くすることが非常に上手だったことが、僕の性格とも合いました。

広島カープのときは横浜ベイスターズのときと比べると、「プロ野球選手らしいこと」ができたと思います。

 

ーーー「プロ野球選手らしいこと」とは具体的にどのようなことですか?

ヒットを打ったり、代走で出たり、ショートでレギュラーとして出場したり。

横浜ベイスターズのときとは違い、一軍で活躍することができました。

しかし、1年間を通してレギュラーで出場する機会はなく、毎年ベンチからのスタート。

誰かが怪我したら、その穴を埋める、その人が帰ってきてまた別の人が怪我をしたら、その穴を埋める…その繰り返しでした。

トランプの七並べのジョーカーみたいな存在でした。

 

僕自身がもっとずば抜けた結果をどこかのポジションで出せば良かったのですが、そこまでにも届いていなったんですよね。

怪我している人がいるタイミングで出場することや、代打などが多かったこともあり、毎年、半年ぐらい試合にでている状態でした。

「もしここで木村が出たらこのレベルまではやってくれる」という信頼を勝ち取ることはできていて、年棒4000万円は常に超えている状態まで持っていくことはできました。

しかし、レギュラーでずっと試合に出場することができなかったんです。

心の中でレギュラーで出たい、もっとやれるという思いはずっとありました。

 

ーーー年棒4000万円は聞いただけでもかなり羨ましがられる金額だと思います…。広島カープからあえて離れようと思ったのはなぜですか?

小学校時代の文集に書いた「10億円プレイヤー」からかけ離れているのにも関わらず、どこかで年棒4000万円もらっていることに満足してしまっている自分がいたからです。

「もし自分が1年間レギュラーで出られたら、どんな風に活躍できるのだろうか?」

と自分を知りたい気持ちがありました。

そんなとき、僕の手の中にあった選択肢がFA権でした。

 

ーーー恵まれている環境から飛び出していくのはかなり勇気がいりませんでしたか?

そうですね。

なおかつ、年齢的にすごく若いわけでもないし、家族を養わないといけない状態でした。

広島カープが素敵なチームだからこそ、もっとこのチームで頑張りたい気持ちも強かったので本当に迷いました。

正直迷いすぎて答えが毎日変わる日々を過ごしました。

人って悩みすぎると何に悩んでいるかもわからなくなるんですよ。

そんなとき、当時広島カープの本部長の鈴木さんが僕のお話しを聞いてくださいました。

僕が悩んでいる様子を見て、現広島カープの監督である緒方監督もFA権で迷っていたことを話してくれました。

 

「FA権は有名なプロ野球選手が通る大きな道で、迷う選手はたくさんいる。だからたくさん迷ったらいいよ。」

といつも親身になって話を聞いてくださいました。

最終的には、FA権を使う選択をしました。

色々あったんですが結局どの球団にも取ってもらえず、「セルフ戦力外」とスレが立ちました。

その後トライアウトを受けて西武ライオンズに行くことが決まりました。

 

西武ライオンズで再スタート。その先に起こったアクシデント

ーーー西武ライオンズでは、どのようなスタートを切りましたか?

西武ライオンズではセ・パ交流戦など、いろんな試合に出場しました。

 

ーーー順調なスタートだったんですね。

それがチームのサインプレーの時に前十字靭帯を断裂してしまったんです。

今まで何十回、何百回とやっているプレーでした。

変な感覚はありましたが、あまり痛みも感じなかったのですぐに立ち上がりました。

すると周りが僕に「歩くな!」と止めるんです。

しかし、僕自身いつものように歩くこともできたので、大したことないなと思っていました。

 

ーーー前十字靭帯の怪我をされた人って怪我の後すぐには歩けるそうですね…。その後すぐに病院に行かれましたか?

練習を中断して、すぐに病院に行きました。

そこでMRIなどをとってもらい、診断が出ました。

「前十字靭帯 断裂」

前十字靭帯って、損傷ならまだ治るのですが一度断裂してしまうと、もう2度と元に戻らないんです。

検査結果が出た直後に手術が決まりました。

 

ーーー広島カープ時代、怪我をした選手のカバーすることが多かったとおっしゃっていましたよね。ということは普段からあまり怪我をすることはありませんでしたか?

小学生のときに野球肘になって以来、ほとんど大きい怪我をしたことはありませんでしたね。

なので、このときは自分が怪我をしたこと自体、夢なんじゃないかと何度も疑いました。

全く何もできない自分が不思議で仕方がなかったです。

当時、チームメイトからも「木村さんは怪我しない」「昇吾は大丈夫」とよく言われていました。

それくらい怪我をしなかったんです。

 

ーーートライアウトを受け、その後すぐに怪我をして…となると、そこからモチベーションを保つのは大変ではなかったですか?

怪我をした後、2年目に突入するときに、横浜ベイスターズでお世話になった辻監督が西武ライオンズに来られました。

そこで、「必ず一年後に1軍に復帰します」と誓いました。

自分でも必ず治自信がありました。

その約束が一番のモチベーションに繋がりましたね。

 

ーーー結果はいかがでしたか?

開幕には間に合わなかったものの、1軍には戻ることができました。

技術的にはもっと伸ばさないといけないと自覚していましたが、

怪我から復帰して、来年も十分見込みがあるという感触もありました。

 

しかし復帰したその年でクビになってしまったんです。

自分の中では「足の怪我が完治したら絶対大丈夫」

という感覚があっただけに非常に悔しかったです。

ここで西武ライオンズを離れることになりました。

 

第二ステージクリケットへ

 

ーーーそこからクリケットに転向するイメージがあったのでしょうか?

いや、僕自身野球が大好きなので、もっとこれからも野球を続けたい想いが強かったです。

クリケットをすることになる前も、最後の最後までプロ野球選手として活動できるように粘り続けました。

今クリケットをしていますが、野球を捨てたわけではありませんし、今でも野球が大好きです。

そんな中、当時西武ライオンズの担当記者を務めていた平尾くんっていう人がいました。

僕と同期で仲が良かったこともあり、僕がプロとしてまだ野球を続けたいことを伝えていました。

平尾くんには、どこかの球団が僕に興味を持っていることがわかればすぐに連絡して欲しいことを言っていたんです。

普段、携帯を近くに置いて練習することなんて絶対ありえないのですが、その時ばかりは平尾くんからの連絡を待つために、練習中も携帯がわかる場所において待ち続けました。

 

そんなある日、平尾くんから電話が鳴ったんです!!

「どこか球団あった?!」と聞くと

「いや、球団じゃないんだけど、木村くんさ、クリケットって知ってる?」

と想像と違う角度からの質問が飛んできました。

 

どうやら、選手会のコンベンションの数日前、クリケット協会の方が

「プロ野球選手の中でクリケットをしてくれそうな人はいませんか?」

とプロ野球選手会の方に尋ねたそうです。

 

そのときの話しをコンベンションのときに、プロ野球選手会の方が平尾くんにその話をしたそうです。

平尾くんは僕のことが頭に浮かんだらしく、すぐに電話をしてきてくれました。

 

ーーー電話でクリケットの話を聞いたときはどんな感情でしたか?

正直、「クリケットという名前は聞いたことあるけど、あんまり知らないな〜」と思いながら聞いていました。

色々考えながら聞いていると、平尾くんがどんどんクリケットの魅力を語ってくるんです。

日本ではまだ流行っていないけど、世界では2番目の人口だとか、年棒が桁違いだという話とか、クリケットのルールとか…。

その話を聞きながら、僕自身が野球をまだやりたい気持ち、社会人野球に呼ばれているけど、コーチ兼選手として雇ってもらう可能性が高いこと、コーチ兼任ではなく選手として戦いたいことなど頭の中で色々考えていました。

平尾くんの話を聞きつつ、自分の気持ちと照らし合わせていくうちに

「あ、俺この競技絶対やるわ」

という確信に変わっていました。

 

ーーー心のどこかで、クリケットに引っ張られている感覚があったんですね!

そうですね。

そんな感覚がありました。

社会人のチームから、「コーチ兼任で選手をしないか?」とお誘いを頂いていたチームもあったのですが、僕自身、「アスリートとしてプレーしたい」という想いが一番強かったんです。

コーチ兼任でやってしまうと、選手としての自分に100%の力を注げないじゃないですか。

そんなときふと思ったんです。

「プロとして長く生きていくことは、いろんな人たちがクビになってきているのを見て来ている。僕にもその時がやってきたんだな。」と。

ということは、僕がクビになること自体、必然的だなと。

 

そんなことを考えていると、今回僕がクリケットで生活できれば、アスリートであり続けられるし、プロ野球選手のセカンドキャリアにとどまらず、日本人にとっても新しい道になるのでは?と思いました。

 

クリケットの魅力

 

ーーー木村さんご自身にいろんな思いがあって、クリケット選手としてやっていくという決断に至ったと思います。ここでクリケットの魅力を教えていただけますか?

クリケットのピッチャーが投げるボールって、だいたい120km/hくらいなんです。

僕は大谷翔平くんの160キロの真っすぐを初見でセンター返しをしたことがありますし、飛んできたボールを打ち返すことは野球と一緒なので、クリケットもそれなりに対応できるだろうと思っていました。

 

ですが、初めてクリケットで打席に立ったとき、バットにボールが全然当たらなくて…。笑

野球とクリケットは似ていると言われていますが、全く違った面白さを感じました。

今は、まだまだできない事も多くて悔しいですが、とにかくクリケットをすることが楽しいです。

お金の問題や日本国内での認知度など色々問題はありますが、今挙げだすとキリがありません。

とにかく今は、クリケットを上手くなって、プロ選手として普及活動を続けていくことが大切だと感じています。

 

クリケット環境の現状

ーーークリケット日本代表選手の現状を教えてください。

基本的に、学生や社会人として働きながら競技を続けている人が多いですね。

大学生はまだ練習時間が確保されるのですが、一般の方と同じように働きながら競技を続けるのはかなり難しいかと思います。

練習したいけど練習できない、といった環境が続いてしまうと、もともと好きなことも好きじゃなくなってしまいます。

これはアスリートにとって良いことではありませんよね。

大学卒業してからが一番脂がのってくる時期なのに、クリケットをする時間が足りないと、競技レベルの向上が思うようにできなくなってしまいます。

クリケット選手たちが、クリケットの練習や試合を十分できる、整った環境をつくっていきたいですね。

 

野球選手のセカンドキャリアはクリケット選手?

ーーー野球選手がクリケットに転向することに対してはどう思いますか?

かなり転向しやすいと思います。

今の日本のプロ野球選手が本気でクリケットをやれば、世界一なれる強さは十分あります。

プロ野球選手のすごさをよくわかっているので、僕が保証します。

 

サッカー元代表監督の岡田さんが、日本サッカーが海外で勝てない理由をこう話されていました。

「日本のサッカーが海外で勝てない理由は、日本で一番メジャーなスポーツじゃないから。」

この時、日本の野球が強い理由に納得しました。

人気のスポーツはみんながやりたがるので、国内では野球が一番いい選手を持って行ってしまうんですよね。

国内で一番センスがある人たちが集まる競技は、当然強くなりますよね。

 

クリケットを発展させるためには、メジャーにすることが必須条件です。

野球と比較的似ているスポーツなので、クリケットを人気にするチャンスだと思っています。

 

セカンドキャリアという言葉の認識としては、

「お金を稼ぐこと」

が大前提ですが、日本には今クリケットで稼げる環境はありません。

これから日本国内にもクリケットのプロリーグをつくりたいと思っています。

クリケットでお金を稼げることがわかれば、自ずと人口も増えますし、そこを目指して頑張る人も増えますよね。

 

今後の目標

ーーー最後に今後の目標を教えてください。

まずは、クリケットの道をつくる先駆者になります。

僕自身が広告塔になり、クリケットを宣伝していきます。

 

「プロ野球選手がプロクリケッターになる。」

 

という新しい風を吹かせます。

正直、今は順風満帆なわけではないけど、自分の中でワクワクが勝っています。

最近ではクリケットを広めるために、体験会も行なっています。

 

 

少しずつですが、自分の競技力を高めつつ、体験会などで、できるだけ多くの人にクリケットを知ってもらい、楽しんでもらう活動をしてクリケットを広めていきたいと思います。

 

セカンドキャリアに悩むスポーツ選手に一言

 

ーーー最後にセカンドキャリアに悩んでいるスポーツ選手にアドバイスをお願いします。

正直全てのことに関して縁を大切にすることが大事だと思います。

間違って欲しくないと思うことは、

「評価は自分でするものではなく、相手にされるものだ」ということです。

どんなに自分ですごいと思っていても、最後は周りの評価なんですよね。

「どうして自分は評価されないんだろう」と思う前に、それを覆すくらいの努力をすることが大切です。

 

これは、無理に適応するために流されろという意味ではなく、自分に何を求められているのかを考えて欲しいということです。

 

・自分にやれること

・自分が今やりたいこと

・自分が今やらないといけないこと

 

この3つが一緒だと必ず伸びます。

 

僕自身に例えると、自分にやれることとは、練習をしたり考えたりすること。

自分がやりたいことは、クリケットの選手として、そしてアスリートとして活躍することです。

自分がやらなければいけないことは、これも練習やクリケットの普及活動です。

 

常にこの3つを頭に置いて、行動していくことで道が開けてきます。

セカンドキャリアに悩んでいる人、普及活動に悩んでいる人にもぜひ考えて欲しいですね。

 

木村さんに取材してみて感じたこと

 

野球界から新しい道「クリケット」の世界に飛び込んだ木村昇吾さんは非常に志が高く、今後の「クリケット界」を変えていくんだろうなと確信しました。

もともと、厳しい野球界で戦われていた方だからこそ「クリケット」の世界でも最短距離で日本代表にメンバー入りされたと思います。

現在「クリケット界」を変えるために動いている木村昇吾さんを見ていると、「日本のクリケットの先駆者と言えば木村昇吾さん!」と言われる時代が来る!とワクワク感が止まらないインタビューとなりました!

アスリートからアスリートへのセカンドキャリア、木村昇吾さんに大注目です!

 

東京オリンピックへ向けて。〜プロへの挑戦〜


私は今年の10月に、
ソフトボール世界No. 1の国である
アメリカのプロソフトボールチームに
入団テストを受けに行きます。

身長は154㎝で体格は決して恵まれていません。


中学時代全国大会でベスト4、
高校のインターハイで優勝、
大学の関西リーグでは
防御率0で最優秀投手賞を受賞。

しかしながら、
日の丸を背負って投げた試合は、
日韓交流戦のたった一度だけ。

結果は出ているものの
決して三振をバンバン取れるピッチャーではなく、
同年代の中でも
目立ったピッチャーではありませんでした。
 
立命館大学に入学し、
1回生の秋から
ほとんどの試合を任せてもらうようになり、
エースとしてマウンドに立ち続けてきました。

しかし、投げすぎが原因で肩を負傷。

上野さんたちが戦っている
日本ソフトボール界の頂点である
「実業団」に挑戦するイメージは
どんどん消えてきました。

ある日、「アメリカのプロリーグにスカウトされる」
夢を見たことがきっかけで
海外でソフトボールを続けることを決意。

2017年11月から
オーストラリアのブリスベンに
1年半ソフトボール留学し、
QLD州(ソフトボールが最も盛ん地域)U23の代表
に選ばれました。
 
オーストラリアで
自分のピッチングが通用したことが
自信になり、
ソフトボール世界No.1のアメリカで
プロを目指すことを決めました。
 
人間、
諦めなければ必ず夢は叶うと信じて
ここまで取り組んできました。

アメリカのプロになる事は、
決して簡単なことではありません。

しかし、どうしてもこの夢を叶えて
日本人初のプロソフトボール選手に
なりたいのです。

そして、日本から私以降に
アメリカでプロになる選手を増やし、
日本の競技力向上を図ります。

私のファンクラブにて、
今後の展望をお伝えしておりますので、
是非ご覧ください。

このファンクラブでは、みなさんと一緒に夢を追いかけるためのコミュニティです。

ぜひご入会いただき、一緒に頑張りませんか?
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